「中島知久平 その生涯」からの学び

今月16日に、太田商工会議所青年部 創立30周年準備特別委員会の例会で、

中島知久平氏の生涯についての講義がありました。

講師は、市内屈指の郷土史家である茂木(もぎ)晃先生でした。

 

私は、太田生まれで太田育ちなのに、中島知久平氏のことを・・・

そういえば、ほとんど知らなすぎてました(-_-;)。

 

このことを深く?反省し、

『中島知久平 その生涯 ~翼に思いを乗せて~』というテーマの講演に参加させていただきました。

 

 中島氏は、明治17年、尾島町の染料の藍栽培と養蚕業を営む中堅の自作農の長男として生まれましたが、「百姓に学問はいらない」と言われながらも、夜学で漢学を学んだり、同期生から教科書を借りて独学したり、と学習意欲がとても強い青年でした。

そして、出奔。家の神棚に上げてあった家業のお金を持ち出して上京し、数学学校や英語学校で猛勉の日々を送りました。

家出同然で実家を離れてしばらくたった後に、知久平氏は、父に手紙を書いていて、その原本がまだ残っているそうです。

その内容は、人としての成長と学びの必要性と、 将来、何かを成し遂げたいという情熱と意欲に燃えた自分を理解してほしい、というようなものだったかな、という印象でした。

 

そして、明治36年、海軍兵学校の受験には失敗したものの、同年、海軍機関学校に合格し、入学します。

兵隊養成学校ではなく、機関(戦艦の駆動等)の分野に進んだことが、後に、知久平氏の人生に大きな転機をもたらしたのかな、と私は思いました。)

 

その後、海軍軍人として 明治44年には、大尉にまで昇進しますが、このとき、知久平氏は、政府の「大鑑巨砲主義」の政策を批判し始めます。

世界を睨み、当時の時代の兆候を敏感に読み取っていた知久平氏。

 

大正元年、アメリカのカーチス工場で日本人として3人目の飛行機製造・整備技術、操縦のライセンスを取得します。

 そして、大正2年、自力でカーチス式飛行機を1機製造してしまいます(知久平氏は、このとき30歳)。

 航空力増強の自分の考えが軍部に受け入れられず、大正5年に 退役の決意をしたらしい、と当時の日記にそのような表現があったのだそうです。

そうして、大正6年、養蚕小屋をオフィスとして借りて、中島飛行機の前身として「飛行機研究所」を設立し、昭和20年までの約30年間、会社は大発展を遂げました。

 旗揚げ時のメンバーは、わずか10人足らず。

・・・その後 昭和19年には、太田工場で、生産機数が14,634機。従業員数も49,591人!。

とくに、人事管理制度の構築などは、当時としては かなり先進的だったようです。

 

知久平氏の経営手腕、本当に恐るべし!です。

しかし、終戦後、昭和25年7月には、財閥解体指令によって13社に分割され、富士重工業株式会社のほか、さまざまな事業形態で、企業が残っています。

 

中島知久平氏と中島飛行機株式会社が残したものは、太田の地にて、計り知れなく大きいものです。

 

茂木先生のことばをお借りすると、

 

内陸型のアッセンブリー工業で、多くの下請け・関連産業を傘下におさめる太田の基幹産業として、高い付加価値をもって地域経済を支えていること。

 

アメリカ軍の進駐は、長い目で見て、太田を国際的に開かれた街の雰囲気を醸してくれたこと。

 

当時、全国から従業員や職工、学徒や女子挺身隊など、戦後帰省された方もいらっしゃいますが、定着してくれた人々は戦後の復興、平和産業への転換に努力、貢献してくれたこと・・・など。

 

中島氏の施設、人材、頭脳や技術、会社経営のノウハウが今日の太田を支えているといえます。

 

今、じぶんが生まれてこの世にいるのは、じつは、当時、太田に中島飛行機があったから。。。という方も確実にいらっしゃいますしね~(*^_^*)。

 

当日の講義は、1時間ちょっと という短い時間でしたので、

 

これからも機会をもって、もっと、中島知久平氏のことなどを勉強していきたいと思っています(^^)。

 

 

 光の河を進む

 

 

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公認会計士・税理士 権田 俊枝

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