根本思想は、その根元から溶解していくべし!?

先月に 女性蔑視の発言・・・!?という議論が五輪関係でなされましたが、

私自身の個人的な考えなのですが、

うーーん、そんな大きな問題なのだろうか・・・?

とも思っていて、

蔑視という視点からというより、むしろ、

会議の運営の仕方として、発言する人たち誰しもの内省 あるいは、

会議運営の方針をあらかじめきちんと定めておく、という段取りとしての反省

という側面があろうか、と思います。

 

もちろん、会議のすべては開示されているわけでないので、あくまで

(関係者以外の誰もが)会議の一部での事実で判断しているわけで、

上記の側面が必ずしも正しいわけではないのですが。。

 

 

発言者は、当然、その思想が根本にあって、”そのような”言葉を発しているわけです。

 

そういった根本思想は、数百年(もっと数千年単位?)を超え、深ーーーいものがあります。

 

 

私が時間があるときにぜひ、読んでみたいと思っているのが、

『問題だらけの女性たち』(河出書房新社 ジャッキー・フレミング著) です。

 

それは、

科学者のダーウィン、作家のモーパッサン、哲学者のショーペン・ハウアー

そして近代五輪の父クーベルタン 方々

歴史上の偉大な人物が

いかに女性はダメであるかを力説されていることをコミカルに描いた本です。

 

その性差別と偏見は 本の概説では、

狂喜??してしまうくらい滑稽な論拠! なのです。

 

これは 逆に 女性が元気出てくる 著書かもしれませんよ~(^^;

 

『普遍の理念を尊重する』

という理念は、

裏返せば、それが達成されていない

という証でもあります。

 

同様に、たとえば  ”異文化理解” という言葉(理念)は、

異文化の存在を私たちが意識しているから言葉としてあるわけです。

だから、異文化 を私たちが意識しなくなったとき(融合が生じたとき)

”異文化理解” ということばも自然と消滅していきます。

 

女性蔑視という思想は(差別はコレだけでないですが)、

水面下の氷山のように奥深ーい深ーい。

 

なので、それをどう今後、溶かしてゆくか が大事であって、

氷山の一角として発せられた発言者のことば尻を捕まえて

その部分だけに集中砲火を浴びせるのは

これは エネルギー ロスでは?

と 冷静に私は思います。

(冷静すぎかっ!?)